廣厳院の歴史

廣厳院の歴史

廣厳院は、相州小田原 最乗寺 十四世 雲岫宗竜大和尚を開祖、塩田長者降矢対馬守を開基とし、寛正元年(1460年)に開山しました。山号を妙亀山といい、寺地の池より霊亀が薬師像を背負って現れたことに由来すると言われています。また、甲斐四群(山梨、八代、都留、巨摩)の中央に位置することから、中山とも俗称されています。
武田信昌が文明十九年(1487年)に寺領を寄進して以来、信縄、信虎、信玄、勝頼と武田家五代の庇護を受けました。特に信玄は弘治二年(1556年)に祖母崇昌院殿(信縄妻)の菩提を弔う為に寺領十貫文を寄進したといわれています、また武田家滅亡後は徳川家の庇護を受け、江戸時代に入っても寺領八十三石が安堵されました。甲府大泉寺とともに甲斐曹洞宗の大元としての格式があり、県内八百余の末寺を総括し、最盛期には八十人の僧を擁する大寺でした。
本尊は聖観世音菩薩、甲州八十八霊場の第十六番札所であり、現在も境内に本堂、庫裏、開山堂、鐘楼などの主要な建物が残り、それらの建物はすべて江戸時代の建物として貴重な建造物です。山門は既に失われておりますが、礎石が往時の繁栄をしのばせています。

廣厳院はかつて甲斐四郡(山梨、八代、都留、巨摩)の真ん中ということで、「中山」と呼ばれ栄えた地域です。現在でも地元の皆さんからは、「廣厳院」より「中山」という名前の方が通りが良いと親しまれています。また甲斐曹洞宗八百三十寺をまとめる立場の寺院であったことから、八十人以上の僧侶が修行していたといわれている大変大きな寺院でした。それゆえ二万六千坪という広大な敷地があり、境内の周囲が一里二十四町(現在で言う約五キロ)あったといわれています。特に石和町中川から廣厳院まであった参道は、「中山街道」と呼ばれるほどの参道で、籠が方向転換できるほどの道幅があったと言われています。

雲岫宗竜大和尚 (うんしゅう そうりゅう だいおしょう)

明徳五年(1394年)~文明十年(1479年) 室町時代の曹洞宗の僧侶。明徳五年七月三日生まれ。出雲(いずも)大社大宮司北島資孝(すけのり)の子。吾宝宗璨(ごほう-そうさん)の法をつぐ。寛正元年(1460年)甲斐廣厳院を開いた。文明十年(1479年)十二月九日死去。八十五歳。